近年、人手不足などを背景に人的資本経営への関心が高まり、オフィスにもエンゲージメント向上や企業文化の醸成といった役割が期待されるようになった。
ソフトウェアの品質保証事業を展開するSHIFTは、人的資本経営という言葉が広く使われるようになる前から、人を中心とした経営を実践してきた。2023年にはその思想を体現する戦略拠点として麻布台本社を開設した。
同社の人的資本経営への考え方と、それを支えるオフィス戦略について、コーポレート人事統括部 総務部 坂本俊一氏に話を伺った。
優秀な人材を採り続けることが会社の成長につながる
SHIFTでは、会社を成長させるためには「何をするか」以上に、「いい人を採ること」が重要だという考えのもと、2008年ごろから人事部門に注力し、現在でいう「人的資本経営」を実践してきた。2018年には、自社開発の人材マネジメントシステム「ヒトログ」の運用を開始し、自社の人的資本経営に必要な情報を蓄積・活用する基盤を整えている。
人を中心に据えた考え方は、オフィス戦略にも反映されている。
ソフトウェアテストという事業特性上、世の中に出る前の製品を扱うことも多く、従来は情報セキュリティの観点から出社が前提だった。しかし、コロナ禍を機に顧客企業からもテレワークが認められるようになった結果、オフィスを拡張せずとも人員拡大が可能となり、採用強化とともに事業は急成長した。一方で、数年が経過しコロナ禍が明ける頃には、企業文化や一体感が失われつつあることが課題となっていた。だからといって、急速に増えた社員全員を出社へ戻すことは現実的ではない。オフィスを拡張せずに済むというテレワークの利点を失わずに、いかに企業文化や一体感を醸成する空間にするか。限られた投資で人的資本を最大化するためのオフィス戦略としてうまれたのが、麻布台本社である。
このプロジェクトでは、オフィスをコストではなく、人的資本への投資と位置づけている。そして、オフィスを整備するだけでなく、その後の運営までを通して人的資本を最大化していくため、管理本部に属していた総務部は人事本部へ移管され、総務と人事が一体となって麻布台本社プロジェクトを進めた。
本社オフィスはハレの日に訪れる「教会」

麻布台本社へ重点的に投資する一方で、本社以外の全国の業務拠点は、シンプルな内装や什器の転用などにより、可能な限りコストを抑えている。
SHIFTでは担当案件によって働く場所が決まり、在宅や顧客先で働く社員も多い。オフィスで働く社員は2~3割程度にとどまるため、社員に平等に投資するという観点からも、業務拠点には「仕事をする機能さえあれば十分」と割り切っているのだ。このメリハリある役割分担は、同社のオフィス戦略の大きな特徴といえる。
一方、麻布台本社は会社の象徴であり、社員全員の共通拠点である。坂本氏は、麻布台本社を「教会」と表現する。「ヨーロッパの街には、その街の象徴となる教会があります。教会には毎日行くわけではありませんが、イベントがあれば訪れ、普段顔を合わせない人同士が交流し、自分がこの街の一員であることを再認識してまた日常へ戻っていく。日常業務を行う各業務拠点が『ケ』の場であるのに対し、麻布台本社は、イベントなどの非日常を体験する『ハレ』の場です」(坂本氏)。
実際に麻布台本社は、共用スペースを中心とした構成となっており、日常的に勤務するのは経営層などの110名程度であるのに対し、月あたりのユニークユーザーは約1,500名にのぼり、多くの社員が必要なタイミングで集まる共通拠点として機能している。エントランスやカフェ、プロジェクトルームでは、社内表彰やキックオフ、社員の家族を招くファミリーデー、顧客向けオフィスツアーなど、日常業務とは異なるさまざまな活動が行われており、その数は年間約1,000件にのぼる。

あらゆるデータを蓄積しオフィスを進化させ続ける
「お金をかけてつくったオフィスほど、当初の目的を達成するために無理に使い続けてしまいがちですが、うまくいかなければ積極的に使い方を変えます」と坂本氏は話す。
麻布台本社は、最初はものめずらしさから訪れる社員が多かったものの、その後の利用は思うように伸びなかった。イベント専用の拠点としてスタートしたが、イベントは一日の一部でしかなく、その前後は日常業務を行うため、イベント以外の利用を認めない運用では使い勝手が悪かったのである。そこで、開設からわずか半年後には運用を見直した。カフェスペースを営業社員が執務できるように変更したところ、「麻布台本社ならお客様と会いやすい」と営業社員が顧客を招くようになり、本社の新たな使い方がみえてきた。
以降も、部署ごとの出社率や顧客との接点などを確認しながら、半年ごとにオフィスの使い方を見直しているという。
こうしたオフィス運営を支えているのが人的資本経営の基盤となる人材マネジメントシステム「ヒトログ」である。人事情報からイベント参加やカフェ利用などの行動履歴まで、社員に関するさまざまなデータを集約し、麻布台本社が人的資本の観点でどのような効果をもたらしているかの評価に活用している。パフォーマンスの向上や離職率の低下に関連する項目のほか、エンゲージメントに関するアンケートの結果から、会社への共感、成長実感、安心感などを多角的に分析している。
さらにユニークなのが、社内会議室に設置している「エモーショナルビート」だ。会話や笑い声などの音声から会議の盛り上がりを可視化し、参加者同士のネットワークや会議が活性化する条件の分析も行っている。
坂本氏は麻布台本社について、「現在実施しているイベントを、同等の外部スペースで開催する場合のコストを積み上げると、10年程度で初期投資を回収できると考えています。そのうえで人的資本への効果もみられているため、投資価値はあると思います」と考察する。
一方で、昇給や担当案件など、さまざまな要素が影響するなか、オフィスの効果だけを切り出して示すのは容易ではない。それでも、「できるだけ比較対象の条件をそろえ、オフィスによる差異をつくることで、その効果を浮き彫りにできれば」(坂本氏)と工夫を続けている。
今後は、エモーショナルビートをイベントスペースなどにも展開し、人の動きやコミュニケーションを点ではなく線で捉えられないかを検討するなど、分析の幅をさらに広げていく予定だ。
AI時代こそオフィスに投資する価値が高まる
人的資本経営を支えるオフィスは、社会や働き方の変化に伴い変化し続ける必要がある。坂本氏は「今後のオフィスを考えるうえで最大のテーマはAIだ」と語る。
現在SHIFTでは、AIを活用した業務効率化や標準化により、グループ会社のバックオフィス業務のシェアード化に取り組んでいる。これにより、一部部門では採用を停止したり、余力をBPO業務に振り向けたりするなど、AI活用を背景とした人員構成の転換が始まっている。また、従来は対面で実施していた新人研修は、一部の内容をAIを活用したオンライン形式に変更するなど、業務の進め方も変わり始めている。
こうした変化は、オフィスの役割にも影響を及ぼす。「AIで効率化される業務に使っていた執務スペースは、一定程度不要になるでしょう。しかし、オフィスそのものは不要になるわけではないと思います。意思決定や議論を行う場、AIを使いこなす人材を惹きつける環境の価値はむしろ高まっていくと思います」と坂本氏は予想する。
賃料や工事費が高騰するなか、どこに投資をすべきかという経営判断は、これまで以上に重要になっていく。「人的資本経営は慈善事業ではなく、会社の業績をあげるための手段です。AI時代にどのような人材がどのように働くのか、そして彼らがパフォーマンスを発揮するにはどのような環境が求められるのか。『AI時代の』人的資本経営モデルを模索しています」(坂本氏)。