コロナ禍以降、出社は目的ではなく「手段」になった。特にライフサイエンス企業では、研究開発、事業開発、医療現場、外部パートナーなど、多様な知の交差がイノベーション創出に直結し、オフィスがその機会創出の場となりうる。オープンイノベーションを成長戦略のキードライバーの一つに位置づける中外製薬は、「来たくなるオフィス」を目指して2024年に本社リニューアルを実施した。ハイブリッドワーク前提の出社動機付けや、イノベーションにつながる接点設計をどのように考えたのか。オフィス戦略を担当者に聞いた。
出社率20%で対話減少に危機感。社長がメッセージを発信
中外製薬ではコロナ禍を機にテレワークの活用が進み、出社率の減少にあわせて本社オフィスを2フロア減床した。柔軟な働き方は浸透した一方、社内には別の課題が浮上していた。社員同士が対面で話し、つながる機会の減少である。
同社は2030年までの成長戦略として「ヘルスケア産業のトップイノベーター」を目指しており、イノベーション創出の土台となる対面コミュニケーションの機会逸失に危機感を持っていた。転機となったのは、2023年の新型コロナウイルスの5類移行だ。このタイミングで同社の奥田修社長は「会って、話して、つながりましょう!」というメッセージを全社に発信した。当時の本社出社率は約20%であった。
こうして、2024年に完了する本社リニューアルプロジェクトが立ち上がった。ただし、目指したのはコロナ禍以前の働き方に戻すことではない。ハイブリッドワークを前提としながら、社員が自ら来たくなる場所へとオフィスを再定義することだった。プロジェクトを率いた金子氏は、「コミュニケーション醸成という目的を考えたとき、出社はその手段であって目的ではありません。出社を強制するのではなく、自ら行く意味があると感じてもらえる場所にするための空間設計をハードとソフトの両面から追求しました」と振り返る。
関係構築のためのイベントは「小さくたくさん絶え間なく」
オフィス設計においては、社員同士の「ヨコ」、上司・部下や世代間の「タテ」、部門や組織を越えた「ナナメ」をつなぎ、コミュニティを形成する機能を重視した。なかでも難易度が高いのがナナメの関係構築だ。ただ出社するだけでは、業務上の必要がない相手との交流は生まれない。「偶発的な出会い」と「立ち寄る理由」を生み出す空間が求められた。
その象徴が、全7フロアの中間階に設けたコミュニティビルディングカフェ「KOM」である。フロアの4分の1ほどの面積を占め、最大120人ほどを収容できる。執務席が不足しがちななか、この面積をカフェに割くことには迷いもあったが、KOMは単なる「社食」ではなく、人が集まりつながるための中核機能と位置づけられた。

特徴は、高頻度かつ多様なイベント企画だ。カフェ運営会社を選定する際も、飲食の質だけでなく、人と人とがつながるイベントを継続的に企画・運営できることを重視した。現在はカフェ運営会社のコミュニティビルダーがKOMに常駐し、ESG推進部と共にアイデアを出し合いながら、月2回程度のイベントや、テーマを決めたランチ会、ラジオ体操、社員の持ち込み企画など、さまざまなコミュニティビルディングイベントを実施している。
「KOM開設から2年強で大小さまざまなイベントを開催しましたが、コミュニティ形成に効果的なのは、参加者同士の距離が近い小規模な企画を、たくさん、絶え間なく続けることだと感じています」と堂前氏。カジュアルな場で交流した相手には業務上でも声を掛けやすくなり、ナナメの関係構築につながっているという。
開設直後のアンケートでは、回答者の28%が「カフェの存在により出社頻度が増える」と回答。イベントに加え、朝7時半から朝食を提供して時差通勤に対応したり、「出社時の昼食代が高い」という社員の声を反映して原価で高品質なランチを提供したりと、出社のしやすさや出社体験の質を高める取り組みが、ハイブリッドワーカーの出社を後押ししている。
モバイルバッテリーでオフィス内の回遊を促す
もちろん、イベントや飲食といったソフト面の施策は重要だが、オフィスに来てもらうには、基本的な働きやすさや快適性が担保されていることが前提となる。「最近は大学キャンパスも快適で洗練されていますから、特に若手層が空間に求める水準は高くなっています。また、出社して終わりではなく会って話してつながってもらうことがゴールなので、7フロアにわたるオフィス内をなるべく回遊してもらえるような動線づくりも意識しました」(金子氏)。
15階から20階に設けた執務エリアはほぼ全席フリーアドレスで、各フロアに多様なスペースを配置し、業務や気分に応じて席を選べるようにした。また、リニューアルに際して飛び地となる12階を借り増し、来客機能を集約するとともに外部利用が可能なコワーキングスペースを新設。会議室不足も課題であったため、30名用から80名用までの大規模会議室を新たに設け、全国や海外拠点からも人が集まりやすい環境を整えた。


こだわりの一つが、オフィス内の至るところに配備されたモバイルバッテリーだ。重い充電アダプタを持ち歩く必要があると、それだけでフロア間を移動する意欲が下がりかねない。執務エリアや会議室だけでなく、KOMやコワーキングスペースにもモバイルバッテリーを配備し、オフィス内のどこでも働ける環境を整備した。このことは、カフェやオープンスペースを「仕事にも使える場所」として定着させるうえでも効果を発揮したという。
また、座席予約システムを導入し、出社時に各席のQRコードでチェックインすると、在席情報がフロアの大型ディスプレイに表示される仕組みも整えた。これにより、フリーアドレスでも誰がどこにいるのかを確認しやすくなり、「せっかく来たのに会えない」という不満の解消につながった。チェックインが行われない場合は30分で予約が解除されるため、空予約を防ぎ、席の利用効率を高める狙いもある。
ナナメのつながりが17ポイント改善、マインドにも変化
リニューアル後、社員の出社行動には明確な変化が表れた。コロナ禍以降20%前後で安定していた出社率は約40%まで上がり、現在は45%前後で推移している。また、リニューアル前後のアンケート結果を比較すると、コミュニケーションの実現度合いは、ヨコが8ポイント、タテが9ポイント、ナナメが17ポイント改善。オフィスへの愛着を示す指標も30ポイント上昇した。
社員のマインドの変化も大きい。コロナ禍以前は固定席が大半を占めていたため、リニューアル後もしばらくは執務席以外で働くことへの心理的な抵抗感があった。そこで、KOMやオープンスペースを部会や新製品ローンチのお祝い会などさまざまな場面で活用し、使い方を具体的に示すことで、業務内容に応じて場所を選ぶスタイルが次第に定着していった。
「最近では『KOMで楽器の演奏会ができないか』など、社員からも企画の提案が寄せられるようになりました。また、2025年からの新人事制度で、異動がジョブポスティング(手上げ)になったので、自組織の魅力を発信する紹介映像をKOMで流したいといったリクエストもあり、以前よりもオフィスを積極的に活用してもらえていると感じます。オフィス愛着度やイベント参加率などのKPIを見ながら、今後も運用面はブラッシュアップしていきたいです」(堂前氏)。
2029年の本社移転で目指す「共鳴を生むオフィス」
一方で、リニューアルから2年弱が経過し課題もみえてきた。7フロアかつ一部は近隣の複数ビルに分かれた現本社では、フロアやビルをまたいだコミュニケーションを促すにも限界がある。また、執務席の不足感もあり、出社率を大幅に上げることは難しい。「現状でも席数だけみればもう少し出社できますが、残席が一定以下になると混んでいる印象になります。快適に出社してもらうためには、余白や選択肢が必要です」(金子氏)。
こうした状況も踏まえつつ、社員の主体性をさらに引き出し、継続的にイノベーションを生み出す舞台となるオフィスを構築することを目的に、同社は2029年春、東京・八重洲への本社移転を予定している。
新本社では、グループ会社も含め複数カ所に分散している本社地区のオフィスを集約して合計面積を拡大する。ワンフロアあたりの面積は現本社の約3倍となり、3フロアを内階段でつなぐ一体的な構成を検討している。平均出社率60%を安定的に受け入れられるよう、座席は在籍者数に対して70〜75%程度を用意する計画だ。
また、八重洲という東京駅前の立地もポイントだ。本社勤務の社員だけでなく、他拠点や国内外のグループ会社社員、外部パートナーなど、多様な人が立ち寄りやすい場所に本社を置くことで、社内外の情報や知見が交わるハブとしての機能を高める。
「移転は単なるオフィス更新ではなく、長期的な競争力強化と成長に向けた戦略的な投資と位置づけています。多様な知が交わり、オフィスの中に共創があふれイノベーションの種が生まれ続ける『共鳴』という状態をつくりたい。そのために移転までの数年間は、現オフィスを使った社内実験や意識醸成の期間とし、新しい働き方を先行して育てていきたいと考えています。現在の運用を改善しながら、その知見を新本社の計画に反映していきます」(金子氏)。